尾張に於ける式内社の祭神から推察できる在地状況等についての覚書

              1.尾張各郡の式内社の傾向

                A < 海部郡の式内社から推察できること >
                   海部郡は、愛知県西南部、木曽川下流域の東側であり、南には伊勢湾を望む地域であり、現 甚目寺町
                  をはじめとする12町村で構成されているようです。

                   海部郡は、海岸か、その近くの地域であり、海人族との関わりが深いように思います。式内社8社中、3社
                  が、物部氏との関わりが深い神社であり、物部氏の曲部(かきべ)と思われる氏族も存在したやに推察でき
                  ました。また、1社が、尾張氏に関わる神社でありました。その神社には、本来この地域にはない大石があり、
                  磐境(いわくら)の類ではないかと推察いたします。とすれば、神社の原型かとも思えました。畿内の初期大
                  和王権の大豪族葛城氏に関わる神社も1社があり、部民であり、伴造であったろうか。この伊久波神社辺りに
                  は、間敷屯倉の存在が類推できそうな、屯倉に関わる屯倉社(とんそうしゃ)という社も存在していた。春日井
                  市史では、間敷屯倉は、中世の安食荘辺りかとも推察されていましたが、継体天皇の御子、後に天皇となられ
                  た方が、この間敷屯倉の生産物(米)を北九州 那の津(現 博多港)まで、運ぶようにと尾張連に命じたとか
                  日本書紀には記されています。とすれば、ここであれば、辻褄が合うと言えましょう。また、対馬国の宗像三神
                  の一神を祀る神社も、1社あり、この地域の住人は、海からの進入者でありましょうか。それとも海上交通の担
                  い手であったのでしょうか。

                   物部氏と繋がりのある諸鍬神社のある諸桑村のため池からは、楠の木で造られた繰船が、発見されたと
                  いう。海からの進入用の舟なのか、河川の移動用の舟かは、現時点では、判別はし難いのではありますが、
                   これらから類推すれば、物部氏も、海よりこの地域に進出し、基盤を造り、そして、内陸部へと進出したの
                  ではと考える事もできうるように思えます。そして、初期大和王権も、伴造であり、4世紀頃から頭角を現して
                  きた葛城氏をして、この地域へ進出させ、屯倉を創設して、直接支配に乗り出したのではないかとも推察いた
                  しました。(やはり、朝廷のこの地域への進出は、物部氏より遅れていたのかも知れません。)

                   只、尾張氏については、確かに現 海部郡八開村辺りに、初期神社形式の磐境(いわくら)形式の神社を
                  創設したのではとも考えられるのであり、やはり海人族とも言われておりますから海から進出してきたので
                  しょうか。                  

                B < 中嶋郡の式内社から推察できる事 >
                    中嶋郡は、愛知県西部、木曽川中流域の左岸に位置し、対岸は、岐阜県の羽鳥市である。祖父江町・
                   平和町・稲沢市・尾西市・一宮市の一部が含まれていたようです。

                    式内社は、30社。内 所在が知れない神社は、7社、詳しい事が分からない神社は、2社あった。
                    それ故21社中、垂仁天皇の御世、皇女倭姫命の頃の天照大御神と何らかのかかわりのある神社が、
                   7社。尾張氏に関わる神社も5社。
                    後は、堤防を守る神社が、2社で、崇神天皇の親族が、その地に居住して出来た神社 2社。大和朝廷
                   に仕える豪族が、その地に居住してできた神社が、各3社であった。宗像氏系の神社も1社存在している。

                    この辺りは、穀倉地帯であり、海人族が多いように感ずる。木曽川筋であり、洪水の危険が高く、水田と氾
                   濫は紙一重の地域であったのでありましょう。洪水で、消え去った神社もあった筈。伊勢国にも近く、この地の
                   穀倉が、魅力的であったのでありましょうか。後の世には、伊勢神宮に関わりのある神社も多くなったようであ
                   ります。

                    尾張氏、大三輪氏等は、畿内の豪族であり、多氏等は、天皇の親族であり、この地に居住されたようで、陸
                   路より、この地へ移住されたのか、はたまた海路にて移住されてきたのでしょうか。この中島郡に於いては、相
                   半ばであったと推察いたします。(木曽川という大河川流域であることから、この地域への進出は、小河川流域
                   の進出者よりは、時期的には弱冠遅い方であったかと推測いたします。)

                 C < 葉栗郡に於ける式内社から推察できる事 >
                     葉栗郡域は、東は丹羽郡、南は中嶋郡、北は美濃国、西は木曽川に囲まれていた地域であった。天正
                    14(1586)年の木曽川大洪水により、木曽川の流れが変わり、一部は、岐阜県域となり、現 羽島市と
                    羽島郡の一部が、それで、旧 葉栗郡であった所であるという。

                     式内社は、10社。内 5社は、尾張氏と何らかの関わりのある神社であった。また、大和朝廷と繋がり
                    の深い神社は、3社あり、この地方も尾張氏により、朝廷の勢力圏に入っていたようです。

                  D  < 愛智郡の式内社から推測できる事 >
                      愛智郡は、東は、三河国に接し、西は、庄内川を境に海部郡に接し、南は、太田川や天白川を境に知
                     多郡に接し、北は、山田郡に接する地域であり、式内社 17社は、ほとんどは沖積低地に鎮座している。
                     そこは、主に庄内川以東の低地であり、現存はしていないが精進川流域の低地、天白川流域の低地であ
                     りました。熱田神宮のある辺りは、10の式内社が集中し、熱田は愛智郡の本拠であったと推測されます。
                
                      愛智郡内の式内社 17社。内 9社が、尾張氏と何らかの繋がりがある神社であった。残り2社は、物
                     部氏系の社であり、あとは、大和朝廷に直接繋がる皇室関係者か、部民の神社が1社。自然の神を祀る
                     神社が2社。残りは、不明。以上に分類できるかと。

                      これにより、愛智郡内は、尾張氏の支配下であった事が、顕著でありましょう。只、最初から尾張氏が、
                     愛智郡内に進出していたかは、詳らかではない。また、どの進路にて移住してきたのか、海からなのか、
                     陸からなのかは、式内社の検討だけでははっきりしないと言える。只、海路は、大型の船で航行できても、
                     川の上流域へは、くり船のような小型で、底の浅い船でなければ航行は出来かねたのではないかと推察し
                     ます。実際、地中より、くり船が、発掘された所もありましたから。

                      大胆な推測で言えば、物部氏は、海から内陸部へ、尾張氏は、海と陸路からであろうか。また、尾張氏
                     と物部氏は、祖は、同祖であり、おじ、おいの関係ではないかと推察いたします。(あくまで、日本書紀の
                     記述に従えばですが・・・。)

                  E   < 知多郡の式内社から推察できる事 >
                     知多郡は、知多半島を郡域としており、式内社は、3社のみ。また、これらの神社は、ほとんどが半島の
                    小平野にあたる所に祀られているという。

                     式内社が、3社しかありませんから、推察するにはおこがましいのですが、2社が、尾張氏に関わる神社
                    かと。知多臣の本拠を阿久比辺りに類推する事もできましょうか。また、この阿久比の港は、物資輸送の
                    中継地となっていたのでありましょう。また、羽豆神社のある岬の港も天然の寄港地でもあったとか。
                     海上輸送の中継基地の役割を古代には、果たしていたとも言えるのではないでしょうか。

                    F   < 春日部郡の式内社から推察出来ること >
                   春日部郡は、現在の地域で言えば、春日井市・小牧市・瀬戸市の北部・尾張旭市・名古屋市守山区、北区、
                  名東区、東区、西区の一部・師勝町・豊山町・春日村等の西春日井郡を含む広大な地域であったという。

                   12社あったようですが、名古屋市瀬古を中心にして、千種区、東区、北区、あじま(春日井市)辺りに、物部
                  氏に関連する神社が、3社鎮座していた。春日井市勝川町辺り、味美地区には、県下で2番目の前方後円墳
                  二子山古墳があり、この古墳は、物部氏に関わる古墳ではないかという説もあるという。春日井市史によれば、
                  春日井市上条辺りには、物部氏系の春日氏もいたと記述されています。春日氏は、土着の豪族でありましょう。
                                          現在では、この春日氏は、八田川中流域 現 春日井市朝宮公園辺りの豪族であったように捉えられるとい
                  う。

                   小牧市の犬山寄りの小牧市大字林、本庄辺りには、大県神社を氏神にしていた丹羽氏に関連する神社が、
                  1社あったと推察できましょう。

                   春日井市の東よりから庄内川、東谷山近辺、春日井市田楽、西春日井郡師勝町辺りは、尾張氏に関係する
                  神社群が存在している事が知られる。合わせて4社になりましょうか。

                   とすれば、春日部郡は、尾張氏、物部氏が存在していた事になり、やや物部氏の方が、早くから進出していた
                  のではと推測できると言う。

                 G   < 丹羽郡に於ける式内社から推察できること >
                   丹羽郡は、現在の犬山市・扶桑町・大口町・江南市・岩倉市・一宮市の東部を含む地域と推定されている。
                  先住者は、爾波(にわ)氏であり、その後衰退し、婚籍関係により融合し、尾張丹羽氏が後を継いだという。

                   式内社は、22社。その内所在が確定できない神社もありました。
                  22社中、9社が、何らかの形で 大和朝廷と深い繋がりのある神社かと。5社が、丹羽氏との関わりが濃い神
                  社であり、2社が、尾張氏と深い関わりがあった。出雲系かと思われる神社も3社含まれてもいました。

                   土着の爾波(にわ)氏にかわる後の丹羽氏は、尾張外から移住してきた氏族のようでもあり、大和朝廷と関わ
                  りのある神社も、やはり尾張外からの移住者であったように推察されました。

                   畿内から近い郡であるからであろうか、春日部郡と比べ、有力氏族に関わる神社よりも、大和朝廷の息の掛か
                  った民に関わる神社が多いように感じた。尾張氏の神社が2社と少ない事は、丹羽氏を通して、丹羽郡を支配化
                  に置いていたとも考えられましょう。

                H   < 山田郡における式内社から推察できること >
                   山田郡は、古代から中世末まで存在した。その範囲は、定かではないという。愛知県の地名(平凡社)によれ
                  ば、瀬戸市・尾張旭市・愛知郡長久手町・日進市の北部・名古屋市守山区・北区・西区・東区・千種区・天白区・
                  名東区・春日井市の一部であろうとされています。小牧市史には、小牧市の上末・下末も山田郡に含まれていた
                  のではとも記述されておりました。

                   山田郡式内社 19社の内、最も多いのは、大和朝廷との関わりがある部民に関する神社が、8社。(内訳 4社
                  が、国つくりの神を祭神にしている神社、機織に関する神社 2社、土師部に関する神社 2社) 次に多いのが、
                  この尾張地域を支配していた尾張氏に関わる神社で、6社。残りは、山伏(役行者 小角に関わる神社)が絡む
                  神社 2社。土着の豪族 物部氏系の春日氏に関わる神社 1社でありました。

               2. 尾張 式内社から在地動向をまとめてみると 

                   伊勢湾に面している海部郡では、やはり海からの進出を考えてもいいのかと。海人族系の氏族が、多く、ため
                  池の地中からは、鰹節型の繰舟が出土したとも聞く。物部氏に関する神社が3社あり、物部氏は、ここを基盤に
                  して内陸部(名古屋市千種区、東区、北区)へと相当古い時期から進出したのであろうか。
          
                   尾張氏や、尾張氏系の氏族については、どの郡にも存在し、尾張氏や同氏系の神社が目立つのが、特徴でし
                  ょう。最も尾張氏の神社が、多い郡は、愛智郡(熱田地域)ではあります。
                   
                   垂仁朝前後に畿内の氏族(尾張氏もその一員であったのでしょうか。)等を移住させたようです{春日井市史
                  の説を踏襲}が、この尾張氏は、伊勢湾から浸透して来たのか、畿内に近い内陸から進出してきたのであろう
                  か。式内社からだけでは、判別は、し難たかった。

                   尾張氏系は、40余の氏族が、居るようで、大胆な推測をすれば、庄内川流域を南下し、熱田へと支配を広
                  げたとも解釈できますし、海からの進出の一族もあったのではないかとも解釈が、出来るのではとも。そして、
                  継体朝期には、尾張全土を支配下に納めたのではないかと推測できるようです。

                   初期大和王権も、屯倉や、皇族の名代等を設置したりして、継体朝期を含め以降は、直接現地を支配する
                  体制を取りつつ、部民を置いた。
                   そうした部民に関わる神社も相当数存在している事が知られます。
                
                   土着の豪族は、県主として、大和王権は、祭祀関係で繋げたり、皇族の氏族や畿内の氏族をその地域に居
                  住させ、土着の豪族と融合させていったようであります。

                   尾張地域の先住者は、爾波(にわ)氏とか、春日氏であったのでしょうか。こうした氏族は、伊勢湾から庄内
                  川や五条川のような中河川を遡上し、更に支流域へと遡上し、河川をコントロールし易い所で農耕を始めたや
                  も知れません。

                                          この当時、木曽川には、派川が多く、1本の流れではなかったと推察できます。五条川も、源流域は、入鹿村
                  に流れ込む沢水であり、中流域で木曽川一之枝川(青木川)が合流し、現在とは比べ物にならないほどの水量
                  であったと推測されますし、庄内川へ合流していた筈。現在は、新川へ合流してはいますが・・・。御囲堤(江戸
                  初期築堤)により、五条川は、水源をなくし、木曾川の水を水門により僅かに取り入れ、流れていたとも聞く。
                   それ故、派川流域辺りは、爾波氏が入り込んできた頃は、まだ利用が出来ない技術水準ではなかったかと推
                  察いたします。

                   爾波氏は、そこから、上陸し、山間部より流れ出す沢水を利用した農耕を始めたのでしょうか。
                   そうした土着の氏族が定着し始めた頃、最初に進出してきたのが、物部氏であったのでしょう。相当古くから
                  進出してきたのでしょう。次いで初期大和王権やら尾張氏が進出してきて勢力を広げていったのではと大胆な
                  推測をいたしております。

                   庄内川の中流域を支配したのが、物部氏であり、尾張氏は、庄内川上流域、及び庄内川の中流域へ流入す
                  る支流域と熱田地域の小河川流域を支配下に置き、併せて大河木曽川流域をも勢力圏として、勢力を強めて
                  いったとも言えましょう。そして、継体朝の頃、尾張氏は、娘を、天皇の妃に入れ、朝廷とも深い繋がりを持ちえ
                  ていったと言えましょう。継体天皇死後は、畿内の前天皇系と継体系の二つの王朝が並立し、継体系が、敗れ
                  ていったというのが、史実でありましょうか。

                   こうした手立てを取りながら、初期大和王権は、尾張への支配を強めていったと推測できますし、それが、古
                  代の式内社の神々、氏族の氏神である神社の存在としてみてとる事ができるのではないかと考えます。

                   念のために最確認しておきますと、初期大和王権は、やはり、まだ畿内だけでの王権であり、その他の地域
                  は、先住民たる土着の豪族が、割拠していたと言えましょう。初期王権は、鉄資源の朝鮮半島経路を間接的に
                  しか持ちえていなかったのではないか。直接的な経路は、まだ、九州地域の王権が握っていたとも言えましょう。
               
                   それ故、畿内王権は、3〜4世紀頃は、崇神天皇御世から垂仁天皇御世にかけては、畿内より西に関心がい
                  っていたと思われます。やっと、鉄資源に関する足がかりを朝鮮半島の国から手に入れる事が出来るようになっ
                  たようです。( この辺りの事情は、拙稿  日本史に於ける 空白の4世紀についての覚書 を参照下さい。)そ
                  の為でしょうか、関心が、東に向き始めた頃でもあったのでしょう。こうした背景が、尾張地域の式内社の傾向に
                  現れてきているとも言えましょう。畿内の天皇家の身内が、その地域の土着の豪族と融合したりして、進出し、朝
                  廷は名代、子代を創設し、或いは屯倉として地域の民を部民として囲み直接支配に乗り出したりしたのでありま
                  すが、その間隙をぬって、尾張地域には、畿内の豪族が、在地に曲部の民を置き、土着の豪族と融合したりして、
                  王権が、出来ない不足分を補充していたとも推測出来るのではないでしょうか。そう捕らえれば、この地域の在地
                  状況もダイナミックに把握できえるのではないかと大胆に推量いたしたわけであります。